葛飾のむかし話 その2 遍照院の話

城です。昨日のブログの続きで、葛飾のむかし話、の本にに載っていた面白いお話をご紹介します。

梅津不動産(水元2丁目)のすぐ近くに、遍照院(水元5丁目)というお寺があります。

(ちなみにこのお寺は幼稚園も併設していて、私は遍照院幼稚園の第一回卒業生なのですが、それはそんなに昔話でもないので、今は置いておいて…)

 

この遍照院は実は1,200年も前からある古い立派なお寺で、昔はその敷地も今と違ってすご~く広かったそうです。 (きっと荘園のようになっていたんじゃないかと思います。)

それは戦国時代のころ、この地域は、小田原の北条軍と、今の房総の里見軍が、領地の取り合いのいくさを何度か繰り返していました。

柴又の矢切の渡し付近の川原や、国府台(こうのだい)などが合戦の場となりました。

毎回、北条軍が勝ちましたが、ある時の戦で、負けた里見軍が、戦場から逃げ延び、遍照院にかくまってもらったのです。

そこへ追ってきた北条軍が寺を囲み、里見の兵を出せといってきましたが、住職は怪我をしている兵を引きわたさなかったそうです。

腹を立てた北条軍は、とうとう寺に火を放ち、火はどんどん燃え広がりました

大きな寺の建物が燃え落ちようとするとき、住職は、寺に伝わる財宝の砂金を壺につめ、しっかりと蓋をして、寺のかたすみに埋め、「寺に大事があったら、これを掘り起こして役に立てなさい。」と、言い残して、寺とともに、この世を去りました。

 

その後、時代は過ぎて江戸時代、荒れ果てた寺を再び建て直そうという事になって、村人たちは、言い伝えられていたあの住職の言葉を思いだし、宝探しが始まったのです。

宝が埋まっていそうなところが、次々と掘られましたが、見つかりません。

村人たちは、「まだ出ぬか、まだ出ぬか」と一心に掘り続け、その後には、小高い丘や池が出来たほどでした。

しかし、とうとう宝は出てこなかったのです

いったいあの住職はどこへ壺を埋めたのでしょう?。

もしかしたら、水元に住んでいる、あなたの家の下に、壺はうずもれているかもしれませんよ…。

というお話です。  なんだか、夢がある話じゃないですか!!(大人にとっても)

梅津不動産の敷地に、埋まってるかも~!! Laughing

遍照院の敷地は、当時相当広かったらしく、水元小学校(水元4丁目)のとなりには、今のような住宅地になる前は、一本松が植えてある小高い丘があったり、くぼ地があった、ということなので、きっとその時に宝探しをした名残りだったのでしょう。

あなたの家の下も、一度掘ってみたら…?

 

「葛飾のむかし話」の本は、葛飾区児童館職員が地元のお年寄りの皆さんからお話を聞きだし、昭和59年に何十話ものお話がまとめられています。是非、図書館に行って、借りてみてはいかが?

また、次の機会に面白いお話、ご紹介しま~す。

3月にご紹介した、名主の源右衛門さんのお話も見てね