会長のレクイエム

城です。

前に、この会社の会長である父の病院のことを、ブログに載せたことがありましたが、その父が先月の末になくなりました。79歳でした。

葬儀の際には、沢山の方にご会葬たまわり、感謝しております。ありがとうございました。

父は宮城県遠刈田郡出身です。兄たちが戦争に行って農家をやる男手がいなかったので、上の学校に上がれず、家業の農業をしていましたが、終戦で兄が戻ったのを機に上京し、その後警察官になりました。 その頃は、まだ進駐軍がいたとかいないとか言っていましたから、時代を感じます。現在の天皇陛下のご成婚パレードの際には、沿道の警護をするので、田舎の母親を呼んでパレードを見せた、というのが語り草でした。

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東京にもまだ信号というものがそう無かったころ、大きな通りの交差点の真ん中でおまわりさんが笛と手を使って、信号の代わりに交通整理をしていたものですが、父もその一人でした。まだ排気ガスの規制もなかった渋滞の車の中で何時間も交通整理をする、夏などは相当きつかったはずです。   戦後から高度成長期に移行するころ、今とはまた違う人々の心の荒れがあり、ケンカ沙汰や強盗・泥棒も多かったとか。刃物をもった犯人と対決しなければならないような修羅場も何度かあったと聞いていますが、それも珍しいことではなかったようです。父も戦後の高度成長期を支えた一人だったのでしょう。

昭和39年に水元に家を建て越してきました。ここらへんは田んぼばかりで、道はみな砂利で、水路があり、夏は窓を網戸で空けて蚊帳の中で寝ると、田んぼの上を吹く風が涼しく、蛙の声が子守唄でした。

父は変わり者で、上司に平気で意見を言うものだから嫌がられ、でも後輩は可愛がったから慕われました。不動産屋になってからも、後輩や同僚が近くに家を購入して越してきたり、話をしに遊びに来ていました。

体調をこわして警察を辞め、不動産屋を始めてからも早28年。もともと商売人ではなかったのですが、回りの人々に助けられながら、なんとかここまでこられました。山有り谷有りの人生でしたが、沢山の人に見送られて、にぎやかな葬儀ができ、本人も満足したことでしょう。

 お疲れ様でした、ゆっくり眠ってください。